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LD(Learning Disabilities)とは、器質的なこと(例えば中枢神経系の機能不調や遺伝的要因など)が原因で学習場面に困難をきたす状態のことを言う。感覚器官の障害や肢体不自由、知的障害、情緒障害、貧困や文化の差など環境的要因は、LDの原因とはならない。
LDには様々な状態が含まれるがその内容は「聞く、読む、話す、書く、読解、計算、数学的思考」の7つの基礎的学習能力に分けられる。しかし7つの異なる分野の「できなさ」をLDという1つのラベルで定義しようとするとそれはどうしても曖昧なものになってしまううえにそれぞれの「できなさ」への対処が適切にできない。そしてこの事が現在私たちが抱える問題の一つであるとも言える。7つのタイプそれぞれについて明確な定義を定め、曖昧さを取り除くことが必要だと思われる。 この7つの中でもLD児童の大多数は特に「読み」に本質的な欠陥を持っているとされている。現在アメリカでは「基礎的読み技能」の分野で一つの定義を確立している。漢字は別として、一字一音の仮名を使用する日本においてよりも、綴りに沿って発音が変わる単語を使用する英語圏の国においてのほうが「読字困難」が多くみられる。これは、個人の中に同じような機能不調があったとしても、外部からの刺激の与え方によってはLD状態が避けられたり軽くなったりすることを示唆している。 またアメリカでは「特殊教育=障害児教育」とはされていない。ギフテット(優秀児教育)もLD教育も特殊教育の一分野である。「できないこと」は障害ではなく個性だとする見方から、個人の特性を重視した教育を行っているのである。また最近では「できなさ」を補うだけでなく、「できること」を伸ばす教育に重点が置かれている。 アメリカで「学習のできなさ」をLDと捉えているのに対し、日本では、注意力や集中力に問題があったり衝動的であったり感情が激しかったり多動であったりする状態や、知恵遅れ気味な状態をもLDとする傾向にある。この一因として、LD定義が曖昧なことや、LDと判定されることは精神遅滞や情緒障害とされるよりも改善の余地があるというような肯定的な結果が期待できることが挙げられる。しかしこれでは純粋なLD児(読み困難や計算困難がある子供達)に対する適切な対策をとることができない。このような中でLDが何らかの形で法律化されてしまえば、学校での一斉行動や学習から少しでもはずれる子供達はすぐにLDラベルを貼られて病院に送られたり、学校内で差別感情が起きたりする可能性があり、歴然たる障害もないのにLDという新たな障害児群をつくりかねない。「学習のできなさ」に対しては教育現場で個々の子供の違いに丁寧に対応することが肝要である。 失敗経験が多く学校で低成績のLD児は「自分はダメな人間なんだ」という低い自己概念を持つ傾向にある。またそうしたことが更に成績の向上を妨げる。いかなるタイプの子であっても、心から尊重し、個々への桜梅桃李のかかわりでその可能性を引き出し、自己概念を高めることがLDラベルを貼る前に必要なことではないだろうか。子供が自分の中に些細であっても何らかの自信見いだしたとき、たとえLD状態があったとしてもそれを克服する力が出せると思うのである。 「ポトスには水を、サボテンには乾きを」、それぞれに適したやり方で教育をすることが何よりも一番大切なのである。 |